犬との共生
 −「この家にもらわれてよかったね」と、
       あなたは犬に対してそう思ったことはありますか?−

わが子に対して、または両親に対して何かをしてあげることと引き換えに、何かをしてもらうことを望みますか?自分が何かをしてもらいたいから、他人に何かをしてあげようとするのですか?
もしそういった考えが根本にあるのなら、何をするにも悲しすぎます。

たとえばわが子に対して、「ご飯を食べさせて、学校にも行かせてあげているんだから、〜〜〜」(〜〜〜、は見返りにあたるものが入ります。)や、療病中の親に対して「自分はこんなに世話をしてあげているんだから、〜〜〜」などと考えますか?

犬の場合だって、それと同じことなのです。見返りなんて求めてつきあっているわけではないんです。犬もその飼い主も。

「ご飯をあげているんだから」「散歩をしてあげたでしょう」、そういったことは犬を世話する上での義務ですけれど、相手が犬だからなのかそう思う人がいないとも言えない状況なのです。

普通人間の子どもに対して、「ご飯をあげているのに、出来が悪い。だから捨てる」なんて思考はあり得ません。でも犬が相手だと、なぜかそう思ってしまう人がいるのも事実なのです。だからこそ野良犬なんていうものが生み出されてしまうのかもしれません。

ただ、見返りを求めてつきあっているわけではないけれど、結果的に犬は人間に計り知れないものを与えてくれていると思います。
犬は働く犬(盲導犬や介助犬など)を除いて、主な活動と言えるものは「遊ぶ・食べる・臭いをかぐ・寝る」このぐらいのことしかありません。特にこれといって人間に何かをしてくれるわけではないのです。

犬を厄介者と思ってしまうのには、犬がその人にとって道具に過ぎないからなのかもしれません。その人は犬に何か特別なものを期待していたのかもしれません。
でも多くの犬は、先の「遊ぶ・食べる・臭いをかぐ・寝る」、このぐらいのことしかしません。
それでも共に生活するなかで、人間は犬に与えられるのです。

女優の小川眞由美さんが某番組でこんなことをおっしゃっていたのが印象的でした。
「動物に対してはこれでいいということはない。」
「動物を尊敬している。」

多くの動物と真正面から付き合っている方だからこそ言える言葉なのかもしれません。
でも本当にその通りなのです。

たとえば「今日はたくさん散歩をしてあげた」、いいことです。でも「それでは明日もお願いしますね」、とこういうことなのです。その日何日分もの散歩をしたから(これはいいこととは言えませんが)、明日あさっては散歩をしなくてもいいなんてことはないのです。

犬の命が終わるまで、それは続いていくのです。もちろん老犬になれば、それ相応の生活が必要になってくるので大変なことです。

犬との共生は、全体を通して大変なことばかりです。

大抵保険も効きませんので(最近では動物の保険などあることはありますが)、病気になればそれこそ大変な出費になります。ご飯についてもアレルギーを気遣ってあげなければならなかったり、そのときの犬の体調によってご飯の加減もしなければいけません。 暑い夏や、寒い冬は空調に気をつけなければなりません。

犬は物言えぬ動物ですから、人間の子どものように「痛い」と言えるわけではないし、泣くこともできないのです。だからこそ常に犬の体調に気を配れないといけないのです。
なにより費用と時間、そして根気と愛情が必要不可欠ということです。

これを何をするにも見返りを求めて世話をしているのだとしたら、自分から苦労を背負い込んでいるようなものです。大変なことだけれど、犬に対して「ありがとう」という気持ちがもてるくらいでないとやっていられないのかもしれません。
それでも犬に対して「ありがとう」と思えるようになることは、ごく自然な流れなのです。

わたしにとっての犬との共生は、字のごとく「共に生きる」ということです。
日々犬に助けられ、学び、結局は犬に「この家に来てよかったね」と言うのではなく、わたし自身に対して「この子がこの家にやって来て、本当によかったね。救われたね。」ということなんだなあと思うのです。

home

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送